棒・数字・文字

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棒・数字・文字


レーモン・クノーのエッセー集。

レイモン・クノーは「文体練習」など、"ウリポ"と呼ばれる言語実験による著作およびその創始者として知られるが、この本では"新フランス語"と称するいわゆる言文一致論を度々主張しており、ちょっと意外だった。

"新フランス語"とは、現在のフランス語の綴りが黙字などに見られるように旧態依然とした文語調から脱却できておらず、日常で話される口語・俗語から全くかけ離れたものであるとして、クノーが発案した新しいフランス語の綴り方である。

しかしウリポと言えば、例えばいちども"e"を使わないで小説を書くといった極めて形式的な、それこそ浮遊するシニフィアンと戯れシニフィアンに遊ぶ、言葉の意味性を剥ぎ取った文学の極北といった印象が強く、言文一致とは正直真反対の方法論のように思える。

では、何故クノーの中でそれらは両立し得たのか。

思うに、クノーにとって文語体と発語による口語体のズレは「不純」と感じられたからではないか。

クノーは本質的に詩人であると思う。

この本の中で、クノーはマラルメソネットを題材にとって、ウリポの様々な手法(俳諧化=ハイカイザシオン!など)展開して見せるが、そこで検証されるのは形式が詩の印象にもたらす効果であり、道具としての言葉の可能性の追究である。

言葉の芸術である詩は、本質的に言葉自体の重力を析出する方向に向かうものであり、その実践がウリポということだろう。

また、クノーは数学を好んでいたとのことだが、詩や小説を数学的な規則性のもとに蒸留してゆく過程では、口語にキャッチアップできていない文語体のあれこれは、単に「不純」な夾雑物としてしかクノーの目には写らなかったのではないか。

一方で、この本のタイトルにもなっている「棒・数字・文字」に見られるように、クノーはヒエログリフや漢字、あるいはミロの絵画における記号的なものへのフェティシズムを見せるが、これはかつてシュールレアリストであったというクノーの非西洋的なるものへの憧れの表明のように思える。

数字的な規則性に基づくシニフィアンの軋みとしての言語実験であるウリポの外部にそれらの象形文字表意文字は位置し、アルファベットの地平の彼岸にまだ見ぬ言語芸術の可能性を夢見ていたのではないか。

いずれにしても、文学を言語のレベルで捉え返そうとしたこと、またその階梯を辿る過程で西洋的なるものの渕を覗き込んだことの記録として、この本は読まれるべきものと思う。