リュック・フェラーリとほとんど何もない

リュック・フェラーリとほとんど何もない―インタヴュー&リュック・フェラーリのテクストと想像上の自伝

リュック・フェラーリとほとんど何もない―インタヴュー&リュック・フェラーリのテクストと想像上の自伝


ミュージック・コンクレートやサウンドスケープなどの地平を開拓した現代音楽家、リュック・フェラーリの自伝的著作。

サウンドスケープとは何か、についてはフェラーリ自身によるコメントにもあるとおり、自伝的音楽、自分語りの音楽である。他の作曲家もまたそうであるように。
異なる点は、具体音を用いた表現であること、それにより陰画のように自己を描出したこと、また、時には自身の声も混じるという表現の位相の違いであろうか。

そしてまた、この書物もそのような構成により形作られている。
ジャクリーヌ・コーによるインタビュー、モノローグ、偽史としての創作的な断章、それらをカットアップして配置することで、総体としてリュック・フェラーリその人の像を浮かび上がらせる。

リュック・フェラーリの功績は、理論的な行き詰まりを見せる現代音楽の中にあって、具体音という新しい次元にジャンプしてみせたことにあると思う。それもごく自然な手つきで。
そしてそれは、ヒップホップや音響派、ノイズなどの領域に受け継がれ、現代の音楽体験を豊かにしていて、我々はその恩恵に浴している。

“生き生きした森、そこでは、各瞬間がモクレンの花のように私の上に落ちて来るかも知れない、そこでは、瞬間からいくつもの顔が生まれ、それを私は眺める…、そして、角の売店まで新聞を買いに行くのに一歩一歩私は全人生を賭けるだろう。"


ラカン、すべてに抗って

ラカン、すべてに抗って

ラカン、すべてに抗って


ラカンの伝記をものしたルディネスコによる、伝記風のラカン入門書。
ボリューム的にもコンサイスなので、さらさらと読める。

以下、備忘。

精神分析は民主主義を前提にして、世紀末ウィーンのトポロジーを経て発展したものであり、本質的にアナーキーなものであること。

ラカンは実生活においては多分に矛盾・錯綜した人生を歩んでおり、論考・著作・記録等では読み取れない豊穣なあるいはそれゆえに難解な部分があること。

精神分析においてはパロールを重視するがゆえに、分析する側のパロールについても同じ構造を有すること。それがゆえに、ラカンの自己韜晦的な新語や言い回しがなされたこと。



棒・数字・文字

棒・数字・文字

棒・数字・文字


レーモン・クノーのエッセー集。

レイモン・クノーは「文体練習」など、"ウリポ"と呼ばれる言語実験による著作およびその創始者として知られるが、この本では"新フランス語"と称するいわゆる言文一致論を度々主張しており、ちょっと意外だった。

"新フランス語"とは、現在のフランス語の綴りが黙字などに見られるように旧態依然とした文語調から脱却できておらず、日常で話される口語・俗語から全くかけ離れたものであるとして、クノーが発案した新しいフランス語の綴り方である。

しかしウリポと言えば、例えばいちども"e"を使わないで小説を書くといった極めて形式的な、それこそ浮遊するシニフィアンと戯れシニフィアンに遊ぶ、言葉の意味性を剥ぎ取った文学の極北といった印象が強く、言文一致とは正直真反対の方法論のように思える。

では、何故クノーの中でそれらは両立し得たのか。

思うに、クノーにとって文語体と発語による口語体のズレは「不純」と感じられたからではないか。

クノーは本質的に詩人であると思う。

この本の中で、クノーはマラルメソネットを題材にとって、ウリポの様々な手法(俳諧化=ハイカイザシオン!など)展開して見せるが、そこで検証されるのは形式が詩の印象にもたらす効果であり、道具としての言葉の可能性の追究である。

言葉の芸術である詩は、本質的に言葉自体の重力を析出する方向に向かうものであり、その実践がウリポということだろう。

また、クノーは数学を好んでいたとのことだが、詩や小説を数学的な規則性のもとに蒸留してゆく過程では、口語にキャッチアップできていない文語体のあれこれは、単に「不純」な夾雑物としてしかクノーの目には写らなかったのではないか。

一方で、この本のタイトルにもなっている「棒・数字・文字」に見られるように、クノーはヒエログリフや漢字、あるいはミロの絵画における記号的なものへのフェティシズムを見せるが、これはかつてシュールレアリストであったというクノーの非西洋的なるものへの憧れの表明のように思える。

数字的な規則性に基づくシニフィアンの軋みとしての言語実験であるウリポの外部にそれらの象形文字表意文字は位置し、アルファベットの地平の彼岸にまだ見ぬ言語芸術の可能性を夢見ていたのではないか。

いずれにしても、文学を言語のレベルで捉え返そうとしたこと、またその階梯を辿る過程で西洋的なるものの渕を覗き込んだことの記録として、この本は読まれるべきものと思う。





哲学の自然

哲学の自然 (atプラス叢書03)

哲学の自然 (atプラス叢書03)


中沢新一氏と國分功一郎氏の対談。

國分氏のブログやTwitterをリアルタイムで追いかけていた者にとって、こうして纏ったかたちで読めるのは有難い。


ハイデガーによる原発批判、原子力は自然からの贈与性を切り離す試みである点で愚かである、この指摘は重要と思う。


そこにイオニア的なピュシスの哲学の伏流を見出し、大きな議論に繋げていくくだりは読みごたえがある。


ただし、資本主義云々にまで話が及んでくると、ある種の既視感を感じざるを得ない。

資本主義にしても科学技術にしても、現代において遍く行き渡ることになったのはあくまでも適者生存的なプロセスによるのであって、企図して成ったものではない。

その意味では大状況的な外部環境が変わらない限り、マクロのパラダイムシフトは起こり得ないのではないか。

例えばそれは金融政策が意味を成さなくなるような本格的な低成長時代の到来であるが、思いのほか早く実現するとしても、当面先の話に思える。


一方で、マクロの状況が変わらないとしても、小平の住民投票の件のようにミクロのレベルでせめぎ合うことは可能かもしれず、そのようないわばパルチザン的な戦略を通じて同時代的な感性の変質を目論むといったところが現実的な線か。


後半で提示されたコホモロジーと喩の話や、離散無限的な世界を有限と無限が通底する関係に捉え返すアイディアは着想としては面白いが、いささか概念的に過ぎるし、いくつかの事例は適切でないと思った。


ともあれ、あまたある原発本のなかでもひときわビビッドでかつ真摯な手ざわりが爽やかな、示唆多き本でした。